文部科学省教員養成GP事業 岡山大学教員養成GP主催

第4階地域大学間連携シンポジウム
                    2007.9.8(土)



幼児教育における表現活動の重要性
           小谷隆真(大阪・千里敬愛幼稚園)

 本日は美術教育を中心とした研修会ですが、私は美術教育というより、表現教育という立場でお話をさせていただきます。

 文部科学省が提示している教育指導要領は、かつて音楽と絵画制作を別分野として分けていましたが、今はそれらをまとめて「表現」という分野でくくっています。

 私はこの考え方には大賛成なのですが、とんでもない誤解をされる方もいます。

 音楽と造形の融合を目指して、それぞれの専門家がコラボレートされている事実は、かつて、総合保育という言葉が持てはやされたときの問題点の再現としか言いようがありません。
 ここで言う総合保育とは、例えば、5月に「こいのぼり」というテーマのもと、鯉のぼり製作、鯉のぼりの歌、鯉のぼりの絵本、鯉のぼりの身体表現と、活動をひとつのテーマでくくることに熱心な保育で、今でも決して姿を消した考え方ではありません。

 このような問題は、総合という観点が指導者側にあるからで、子ども側から見ると、それぞれの活動の発達段階を全く無視されたものです。
 だから、指導者が切った鱗を、何度も貼り直しをさせられるという光景を3歳児の保育室で見る羽目になってしまいます。

 私の話の結論をここで先に申し上げます。
 人間の土台を作るのが、教育の真の目標であるとするなら、それぞれの分野で得た知識やスキルを、ピアジェの言う、「同化」と「調節」によって、子ども達一人一人が自らの力で「シェマ」として構成していくのですから、教育とは、それぞれの活動の「総合化」だと言えるのではないでしょうか?
 すなわち、総合保育という名称はあくまで子どもの側に立ったときに輝くのです。活動のテーマ名の統一で総合保育と称するのとは全く別次元の問題です。

 こんな話を持ち出すと、美術教育とは関係ないぞと言われそうですが、私は園で美術教育だけに携わっているのではなく、こういう考え方をしている園長が、表現という領域をどのように捉えているかを知ってもらいたくて、敢えてこのような話から始めました。

 音楽であれ、美術であれ、身体表現であれ、言語表現であれ、それぞれの活動の経験は、ピアジェの言うところの、「すべての認知発達には段階があり、しかもその段階は決して他者によって早められたりはできず、子ども達自らが自身の力によってその段階をのぼる」との真実は、教育者にとって忘れてはいけないことです。

 例えば、「重なり」を絵で表現できるのは、「重なりの絵を描かせた」結果ではなく、その子が重なりのシェマを獲得した結果であって、「描かせた」だけではシェマの獲得には繋がりません。ましてや重なって描けていないのを消させて無理矢理書き直しをさせても、シェマの獲得に繋がらないばかりか、子どもの活動意欲さえ疎外されてしまいます。

 これは認知の発達段階だけではなく、スキルの指導でも、すべての分野、音楽にしろ、体育にしろ私達が最も注意すべきことです。
 また、轍を踏まないためには、子ども達の反応からしか学べません。
 すなわち、子ども達は何が得意か、何が不得意かの見極めを指導者はまず行なうべきで、「始めにゴールありき」では子ども達の発達段階を無視し、結果、子どもから楽しさを奪ってしまうのです。

 興味深いことに、発達段階は、時として年齢に関係なく、その順序を踏みます。もちろん、年齢が高くなるとそれ以降の段階は駆け足で進んでいきますが、その出発点は年齢に関係がないこともあるのです。

 ここに大量の段ボール箱を用意したとします。 そこにいろんな年齢の子ども達のグループを呼ぶとします。
 興味深いのはその子達のこれまでの経験の違いで、段ボールでどう遊ぶかが決まってきます。

 小学6年生のあるクラスで、このような段ボール箱を準備したとき、子ども達の多くは長時間、段ボールに入ったりして遊んだそうです。

 これは3歳児でも同じような行動を取ります。
 私が指導に伺って園で初めて造形遊びを取り入れられる場合は、年長児達にも3歳児と同じような活動から始めてもらっています。
 5歳児でも最初の時間の反応はやはり3歳児と同じで、段ボール箱に入ったりして長時間遊んでいます。

 でも、当園の年中、年長児は違います。
 3歳児で入園してすぐの頃から段ボールを使った遊びをしているので、進級後、段ボール箱を見付けると直ちに次の段階、すなわち、その段ボール箱を使って、自分達の夢の空間を作り始めます。

 他園の5歳児や小学6年生は、当園の3歳児と同じレベルからスタートするのです。
 これは、段ボール箱遊びに限ったことではありません。

 対象物に対してのシェマが充分でなかったら、ゼロから出発するのは至極当然なことです。
 他園の5歳児でも3歳児のような遊びからスタートするのは、その子達がこれまでそのような経験していなかったからです。
 でも2年目からは、年中、年長児すでに製作の段階から子ども達自身が始めていましたし、その後の製作の様子も前年度の子ども達とは大きく違いました。

 さて、認知発達のことばかりを述べていると、表現というテーマがぼやけてしまいそうですが、実はこの認知発達に、すなわちシェマの構造化に、表現教育が大きく関与していると私は考えています。

 子ども達が入手した知識なりスキルを自分の中で再構築して発表することがシェマの構造化に重要なのです。

 ヨーロッパなどでは、ひとつのテーマに対していろいろ調べて発表するという授業形態があります。一人での発表であったり、グループでの発表であったりします。

 このときの発表も表現活動のひとつだと私は位置づけていて、私の考える幼児の表現活動は、この授業形態の幼児版としての特質があると考えています。

 この発表時、模造紙に絵を描いたり、文章を書いたりします。大人だって、プレゼンテーション用にパワーポイントを使ったり、ホームページを作成する際は美術のスキルも要求されます。文章能力も必要です。
 でも、そのような直接的なスキルアップではなく、学校教育での表現活動の重要性で見逃してはならない観点が、先の「シェマ」という概念を私達に知らせてくれたピアジェ以降、ポストピアジェ派と言われている人達の「社会性認知発達心理学」という考え方にあります。

 社会性認知発達心理学では、「人間は生まれながらにして社会性を保有し、その社会性を通してシェマを構造化していく」と考えます。
 
 さて、社会性の中で最も重要なのが「コミュニケーション能力」です。社会性=コミュニケーション能力と言っても良いほどです。

 このコミュニケーション能力を高める上で、表現活動こそ、その指導方法を間違えずにいるなら、とりわけ、幼児教育では重要だとの結論に私は至ったのです。

 私が園に関わった30年近く前、いわゆる縦割り保育が脚光を浴びていました。学年やクラスの枠を外して、それぞれが自分の行ないたい遊びを見付けて参加する保育形態です。
 当園でも早速実践しました。

 その実践方法に問題があったかどうかは不問にして話を進めるのなら、当時は2年保育だけだったにもかかわらず、異年齢の子ども達が同時に同じ活動をすることに、それほどの意味を見出せなかったのです。
 1年の差によるスキルの違いによって、どちらの年齢の子ども達にも楽しめ、しかもそこに保育者の介入なしで展開できる活動の準備は我々の能力では不可能だったのです。
 しかし、ある活動だけは、子ども達だけで遊びが展開しました。
 それが造形遊びだったのです。

 そして、学年、クラスの枠を取り除いた造形活動だけは、その後も、3歳児の受け入れを始めた後も「合同遊び」と称して続けています。

 なお、余談ですが、縦割りとか解体保育と一般的に呼ばれていますが、私はクラスや学年の枠を外しても、幼稚園生活の基盤はやはり、担任と子ども達がいるクラス単位だとの考えから、割ったり、解体するのではなく、他の学年やクラスの子ども達と一緒に遊ぶという意味合いを強調したくて「合同遊び」という名称をつけています。

 さて、そろそろ結びに入ります。
 先に、指導法を間違えなかったら、表現活動はコミュニケーション能力を高める上で重要だと申しましたが、残念ながら現状はその間違いに満ちています。

 ひとつめは、表現活動でありながら、子ども達の思いや考えの表出ではなく、指導者の指導意図の再現に過ぎないことです。
 最近持てはやされている○○式指導法の最大の勘違いは、「描けない子も描ける指導法」ではなく、現実には「描かせられない指導者のための指導法」である点です。

 もうひとつは、指導者の意図で子ども達が活動するので、子ども達同士の関わりが生まれないことです。
 これは母親の多干渉、過保護で見ると、子どもの社会性の発達は明白ですし、現在、日本が抱えている問題は核家族化、少子化で加速している現状から見ると、教育の現場でも指導方法のあり方が検討されるべきではないでしょうか?

 これらの点を裏返せば正しい指導法は自ずから生まれてきます。

 すなわち、
1)子ども達の思いや考えを表出できる表現活動を実践すること。
2)子ども達同士が関わりながら展開できる保育活動を実践すること。

 シェマの構造化及びスキルの向上という2点と共に、私は上記の2点も考慮しながら保育全体に取り組んできました。
 
 描画で説明して私の話を終わります。
 描かれた一枚一枚に、それぞれの子ども達の思いがどれだけ表現されているかは、クラスの絵を全部並べれば一目瞭然です。
 しかし、作品はあくまで結果であって、ある意味、残骸にすぎません。大切なのは、描くという行為です。どのような思いで子ども達が描いているかです。

 子どもが描いた作品を共感を持って認めてあげることが大切だと言われます。確かに重要です。
 しかし、それ以上に、子ども達が指導者に「自分の思いや考えを伝えたい」との気持ちを育てることが肝要なのです。
 コミュニケーションには相手が必要です。そしてその相手の反応によってコミュニケーションの質は変化します。
 当園では、西光寺亨先生のご指導で、「絵手紙」というA5サイズの用紙にフェルトペンで、そのときの思いを描き、担任とその絵を挟んで話をするという時間を1週間から10日に一度程度の割合で行なっていますが、この時間にこそ、子ども達に「絵によって自分の思いを表現したものを先生は受け止めてくれる。だから今度も描こう」との思いが育ちます。

 1)の子ども同士の関わりは造形活動だけではなく、広くすべての活動で考慮すべきことですが、描画に限って言うなら、壁面制作時にグループに分かれての共同画を取り入れています。
 しかし描画活動で、この観点を取り入れるのには限度があり、むしろ造形遊びの方が遙かにダイナミックに子ども達同士の関わりが生まれているのは事実です。
 ただ、描画活動において、自身の考えを相手に伝えたいとの思いやスキルを積み重ねていると、造形活動だけではなく、その他の活動でも子ども達は充分にその能力を駆使できると考えています。

 私が考えている、「幼児教育での表現活動の重要性」を少しでも皆様に伝われば幸いです。
 ただ、私は造形遊びさえしていたら子ども達は育つとは考えていませんし、カリキュラムを構成する際には他の領域との時間的なバランスや時期など、配慮しなければならない点はいくらでもあります。
 各論ではなく、とても広がりのあるテーマを短時間にお話しした意図も、皆様に美術教育だけを見られるのではなく、広く教育という視点での美術教育として捉えていただきたかったし、今回、美術教育の専門外の私を招聘して下さった意図も私なりにそこにあるのではないかと思い、このような話にまとめさせていただきました。

                        以上