■保育資料:2002年9月号

毎日が運動会 その1
             小谷 隆真(千里敬愛幼稚園園長)
 このフレーズをいつ頃から使い始めたかの記憶は定かではないものの、「千里敬愛幼稚園は体育に力を入れているのですか?毎日体育をしているのですか?」との質問を入園予定者から受けたのは今でも鮮明に覚えています。「うちの子は運動が苦手だから入園させようかどうか迷っている」とも言われると、私の保育理念を簡潔に表しているとの自賛が崩れかけ、このフレーズは削除すべきかとも考えました。しかし、表現を変えるより、真の理解への努力の方が大切と思い直し、今日まで教育理念の柱の1本として使い続けています。お陰で、保護者には正確に理解してもらえるようになりました。

■ 通過点としての行事
 いかなる行事も、日常保育の通過点でなくてはならない、と言われ続けています。しかし、私が園に関わり始めた20数年前の当園の運動会は、それにはほど遠く、2学期になって急に練習が始まっていました。
 ある時期、集中的にひとつの活動に取り組むのは効果的です。しかし、その場合、幼児の興味関心がその活動に常に向いていて、活動する毎に意欲が高まる活動でなくてはなりません。子ども達の関心が逸れていながら同じことを繰り返すのは強要以外の何物でもありません。正に、反復練習、訓練です。
 運動会が終わった日、当時のあるベテラン教諭が、「今年もこんなに声が嗄れてしまった」と、半ば自慢げに話したことで、次年度の運動会の改革を決意しました。そのときは正直、「毎日が運動会」のフレーズも、理念もまだ形にはなっていませんでした。しかし、現在の方向に向かって、このとき歩み始めたのは確かです。

■形式の改革から理念への改革へ
 当時の運動会の内容を簡単に説明します。
 開園初年度から取り入れていた鼓隊は、指導に無理があるとしてすぐに廃止したようです。昭和40年代です。しかし、私が最初に見た運動会には、リズム表現的なもの、組体操、行進、選抜選手だけのリレーなどがありました。改革の年、これらをすべて廃止したのです。
 日頃の体育遊びの参観のような運動会に改めました。もちろん、1学期から少しずつ体育遊びを取り入れました。当日はサーキットを延々としている子ども達を見てもらいました。
 リレーは選抜ではなく、クラス内で子ども達だけでチームを作り、クラス内での予選をしてからクラス対抗の決勝戦につなげました。
 保護者にアンケートを取ると、賛否真二つに分かれました。
 反対意見の回答を何度も読んで分析しました。勝敗がないために、観客として楽しめなかったのが反対意見の中心でした。簡単なこと。得点を競う要素を加味して翌年は成功です。
 
■毎日でも運動会
  子どもは運動会が終わっても、本当にその活動が好きなら自分達で   するはず。運動会が終わって指導者も子ども達も、精根尽きたような状態になるのは保育ではない。好きなら、毎日でも運動会をしたいはず。
 そんな思いから、現在では、運動会後1週間ほどして、ミニミニ運動会を行なっています。このときは、学年毎に行ないます。時間は短いですが、ほとんどずっと何かの種目に参加します。
 運動会の花、リレーも、運動会とはチーム構成を変えて行ないます。今回はクラス内の予選なしで、最初から総当たり戦です。
 そして、12月には再度、新チームでリレーだけの大会を開催します。この頃になると子ども達のリレー熱は頂点になり、自由遊びの時間でも自分達でコースを作り、優勝を目指して走り、速く走れる秘訣を教え合ったりもします。
 年中の2学期から始める縄跳びの締めくくりも、縄跳び大会として年長の3月に開催します。
 先にも述べたように、子ども達の意欲なしでは、活動の繰り返しは負担になるだけです。しかし、これらの行事を通して子ども達がより意欲的になるのなら、「行事は日常保育の通過点」以上に、子どもの成長に寄与するものだと考えています。そして、私達の園の子ども達の様子を見ていると、この願いは充分に満たされていると確信しています。
 次回は、具体的な保護者からの報告をご紹介します。



■保育資料:2002年10月号
毎日が運動会 その2
               小谷 隆真(千里敬愛幼稚園園長)
 毎年、卒園児の保護者からの自由投稿原稿で記念文集を作成しています。数年前に、「毎日が運動会」のフレーズを、子どもの姿から理解された瞬間を書かれた文章があるので紹介します。
 まず、縄跳び大会のルールを簡単に説明します。
 1回戦で3回までチャンスがあります。最初は60秒間跳び続けられたら得点がもらえます。しかし、途中でひっかかると、その場にしゃがんで、次の40秒に挑戦します。それでも失敗したら、20秒。20秒がダメなら参加賞の1点だけをもらいます。それらの得点をクラス単位で集計します。
■保護者からの原稿
  縄跳び大会当日、「あ〜、やっぱり」と思うと同時に、私は見ているのが辛くなってきました。応援したい息子は、ずっとしゃがみっぱなし。前日、練習するのを見たけれど、良くて5回、せいぜい2回がいいところなので、20秒をクリアーなんてできるわけなく、まして60秒なんて夢のまた夢。
 お友達がどんどんクリアーして抜けていくのに、しゃがみ続ける我が子を見て、不憫でもあり、不甲斐なくもありました。
 1回戦が終わって、半分泣きそうになって寄ってきた息子に、「2回戦があるから頑張って」という言葉も、我が子の耳に届いたかどうか。
 それでも息子の点も加算され、つばめ組は8クラス中5位。
 私の中では、もう「縄跳び大会」は終わっていました。
 ところが週末に、「僕、30回跳べるようになったから、ママ、見てよ」というので驚きました。当日の様子から見て、とても練習しているとは思えなかったからです。
 一生懸命跳び続ける息子に、思い切り拍手して、「大会の日にこのぐらい跳べれば良かったのにね」と言ってから、ハッと気が付きました。
 息子にとって、縄跳び大会の日は終わりではなく、出発点になっていたんですね。改めて、園の「毎日が運動会」と言われる所以が分かりました。
 親は当日の完成度をついつい期待してしまうけれど、子どもは、それまでの過程や、その後の経過を見て欲しいのだと、今度の縄跳び大会ムその後のことで、つくづく感じました。
 そして、スロースターターの息子にとって、その日がダメでも次がある園の行事に参加することにより、少しずつでも挑戦する心ができてきたことを本当に嬉しく思います。
■練習は禁句
 私の園では「練習」という言葉は禁句にしています。前回の原稿で1度使っていますが、否定的な意味で敢えて用いました。
 練習とは、ある目標に向かって努力することです。その目標のない子ども達には練習という概念自体がありません。
 リレー大会、縄跳び大会が近づくと子ども達は自分達で練習を始めます。達成したい目標があるからです。
 文章の子どもには、この目標達成の意欲がなかったから、本気で練習する気になれなかったのです。
 でも、大会中に何かを感じたのでしょう。幼稚園ではもう縄跳び大会は開催されないと分かっていても、「跳べるようになりたい」との思いが挑戦する意欲を育んだはずです。意味のある主体的な練習です。
 また、運動会、ミニミニ運動会、リレー大会、縄跳び大会と繰り返し行なうことも、「その日がダメでも次がある園の行事に参加」できることで、その子のペースに合った意欲付けが可能なことも理解して下さっています。
  「少しずつでも挑戦する心ができてきたことを本当に嬉しく思います」と結ばれた文章こそ、「毎日が運動会」のフレーズが目指す保育の原点なのです。
■ 根性論では子どもは育ちません
  運動会の練習が始まると登園を嫌がる子が出ても、「頑張る心を育てるのだから」と済ませてしまって良いのでしょうか?指導者の指示通りに動ける子どもが本当に優秀なのでしょうか?
 運動会や発表会などでは、幼稚園や保育園全体がロボット工場化していませんか?
 製作展の前には、保育室が下請け工場化していませんか?
 その工場から脱出しようとする子を根性論や小学校に行ったらついて行けないと親を脅迫するような言葉で正当化していませんか?
 幼児教育は、いろんな経験を通して、いろんなことに興味を持ち、自らの力で挑戦しようとする子を育てる場所です。
 行事はそのためにあるべき普通の特別な日にすぎません。