★平成13年11月
学習の三法則・新旧


 学校教育の指導法に関しての研究の歴史はまだまだ浅く、20世紀になってからです。万人の子どもの教育の必要性そのものが語られ始めたのさえ、18世紀後半のペスタロッチの登場まで待たなければなりません。それまで教育は貴族など一部の人のものでした。

■旧・学習の三法則
 アメリカの心理学者ソーンダイク(1874〜1949)は初めて学習心理学の立場から科学的に組織しました。そのとき発表したのが「学習の三法則」です。

@効果の法則
 刺激と反応との結合は、快適な経験を伴うなら強化され、不快な経験を伴うなら弱められるとし、実際には飴(賞)とムチ(罰)によって学習効果が得られる。
A練習の法則
 刺激と反応の結合を頻繁に行なう、すなわち反復練習によって学習効果が得られる。
B準備の法則
 学習には常に準備体制が必要とする法則で、準備とは「経験」と「成熟」を意味する。
 この考えはアメリカでとりわけ盛んに取り上げられ、日本の戦後教育にも大きく影響しました。偏差値の概念は、ソーンダイクが提案した科学的な測定「教育測定運動」の余波だとみなせます。

■新・学習の三法則
 この考えを否定したのが、現在の教育に多大な功績を残したピアジェ(1896〜1980)です。
 ピアジェはこの学習の三法則を次のように否定しています。(番号は三法則に対応 )

@子どもは報酬が得られないと知りながらも、寝食を忘れて読書に熱中したり、クイズやパズルを解くのに夢中になることがある。子どもにとって、知ること自体、解決すること自体が快適だからである。
 ピアジェは、これを機能的快と呼んでいます。そして、「成長への欲求」が内発的(自発的)動機付けになり、賞罰のような外発的動機付けでを否定しています。
 興味深いのは、ソーンダイクは動物心理学を研究した人で、餌による訓練などでの効果を子どもにも当てはめようとしたとも言われている点です。

A学習にとって大切なのは、練習の回数ではなく、能動的に取り組む態度である。新鮮な気持ちで、自発的に学習していくなら1回だけの経験でも知識は定着する。反復を全面的に否定するのではないが、1回の活動毎に観点を変える必要がある。
 また、練習の法則では正しい反応の繰り返しが重視され、間違った反応は排除しなければならなかったが、ピアジェによれば、子どもの知的発達は、正答の増大ではなく、誤答を自分で発見し、修正する能動的過程のみに存在する。

Bここでの反論はピアジェの認知発達心理学を理解する上で最も重要な「構造主義」の理解が不可欠で、私の力ではみなさんに充分説明する力はありません。充分伝わらない懸念を持ちながら、滝沢武久先生の文章から引用します。

 例えば、子どもが文字を学習する段階は、自然に成熟するものではなく、そこに達するためには、前段階で、話し言葉を通して言葉の意味を理解する活動、単語を音韻に分析する活動、手の細かい筋肉を発達させる活動、図形を区別したり記憶したりする活動などが充分に展開され、それらの活動が構造化された状態になっていなければならない。

 ソーンダイクの考え方では準備とは成熟を意味し、成熟は年齢的なものと考えられていましたが、構造主義の立場での準備とは、先の例のように、十全な前段階での構造化そのものが次の学習段階の準備と考えています。
 この考えから、早期教育が可能だとするブルーナーらは、子ども達に与える教材を構造化することで知的発達を促せると主張しました。しかしピアジェはこの立場にも批判的で、教材を構造化するのは、教師の作業ではなく、子ども自身の作業であると言っています。
 ソーンダイクの考え方は現在のアメリカでも主流を占めているため(滝沢先生の話によれば、アメリカの学校教育の60%はソーンダイクの考え方で、40%ほどがピアジェの考え方で行なわれているとのことです。ちなみにピアジェの生まれたヨーロッパではソーンダイクは否定的で、ピアジェの考え方から派生したいろんな教育法が実践されています)、日本人の教育観にもこの「学習の三法則」が未だに見え隠れしているし、同じ構造主義のブルーナーの考えで早期教育に走る教育実践者もいます。

 この学習の三法則とそれに対するピアジェの批判の講義を、20年以上継続している滝沢先生との勉強会の第一回目に聞きました。そのとき、まだ充分に理解できなかった点も多くありましたが、ピアジェの思想に感銘を受け、その後、保育を考える際の大きな指針になりました。
 ピアジェこそ、子どもの人権という概念を教育に取り入れた最初の人だとさえ思えてなりません。
 幼児教育の場合、Bは我々がカリキュラムを考える際に無視できない観点ですし、実際の指導上では@やAの観点での評価は常にすべきだと銘じています。

 よく私が使う「楽しいから好き」や「千里敬愛幼稚園の保育には『頑張る』も『練習』もない」のフレーズが、ピアジェの考えから出たものだということがお分かりいただけるでしょうか?