幼児教育と表現活動


一、表現活動と行事
  (1)表現活動の種類
 人間が創造した表現活動には次の五種類がある。
 1)造形  2)言語  3)音楽  4)舞踊  5)映像
 これらの活動は幼児教育にも取り入れられている。
 造形、言語、音楽については、特に注釈しなくでも共通理解が得られるものとし、4)舞踊、5)映像に関してだけ、若干の補足をする。
 舞踊という表記は[幼稚園教育要領]では使われていない。[動き]という言葉で示されているが、体育的な活動との混同も現場であるようだ。  
  また一般的に舞踊も、単に「音楽に合わせて踊る」活動として捉えられがちなので(本来はそうではないのだが)、4)に関しては、ここでは[身体表現]と呼ぶ。
 映像は一般的には写真、映画などで、保育では、子どもの活動としてはあまり取り上げられないが、影絵やOHPがそれに該当し、視聴覚教育全般 が、見方によればこれにあたる。
 また、最近ではCG、すなわちコンピュータ・グラフックという新しい第六の表現活動が、幼児教育の現場にも導入されつつある。基本的には映像だが、表現する手段が従来のものと大きく異なるので別 の分野とすべきであろう。ただ、幼児期に導入すべきかどうかの判断は、今後の多角的な考慮を要するであろう。

(2)表現活動の成果を発表する場としての行事
 絵を描く、何か制作をする、楽器を演奏する、音楽に合わせて踊る、いろいろな動物になる、劇をするなどは、どの園でも行なわれている活動だろう。しかも、子ども達の園生活で、これらの活動に費やされる時間は相当な量 に及んでいると思われる。
 とりわけ、これらの活動の成果を保護者や対外的に発表する行事が、大抵の園で催されるため、行事前になると、その量 は急激に増加する。
 一時的に、同じ活動を集中的に取り入れること自体に対し、私は反論はしない。むしろ教育的効果 はあるとする立場にいる。
 しかし、何故その活動を取り入れているのか、また、その活動を通して、子どもの何を育てたいかの、保育する側に正しい認識がないと、それこそ、教育の持つ「負」の要素が増大する危険性がある。すなわち、教育によって歪んだ成長を助長することにもなりかねない。

(3)これらの行事の問題点  
  最初から子どもをダメにするために教育を受けさせようとは誰もしない。子どもの将来のためにと思って教育を受けさせる。親も保育者も同じである。
 その思いは、幼稚園や保育園の案内書に謳う文にうかがえる。
 ところが、現実と違うケースをよくみかけるのである。案内文はあくまで理想であり、現実とのギャップが多少あるのは当然だと、平然としては困る。幼稚園や保育園は、物を売る所ではなく、人を育てる機関なのだから。
 先に述べた、保育の成果を見てもらう行事に話を戻す。  行事の名称は園で多少異なるだろうが、作品展、発表会(劇や踊りを舞台上で発表)、音楽会などは、表現活動の成果 を発表する行事として行なわれる。運動会で鼓笛、リズムダンスなどを発表する園も多くあるだろう。
 行事の前に、ある活動を集中的に取り入れることには反対しないと述べた。しかし、もし、次に挙げる事項のうち、ひとつでも該当するものがあれば、自園の保育の見直しを是非行なっていただきたい。

 1)その時期中、登園を嫌がる子が一人でもいる。
 2)子どもの役割分担に差がある。
 3)その期間中の自由時間に、子ども達だけで同じ活動をすることはない。  4)行事を終えると、子ども達から「またしよう」との声が上がらない。

 以上の4点を、もう少し詳しく説明する。

1)何故登園を嫌がるのかー自律につて
 活動期間中に限らないで言うなら、登園を嫌がる子ども側の理由は多岐にわたる。家庭環境の変化など、幼稚園や保育園での出来事に起因しないものもある。また、友達関係など主に個人に起因するものがある。ここでは、とりあえず、これらを除外して話を進める。
 ある活動が始まって、登園を嫌がるのは、その活動を子どもが嫌がるからだと言えるのだが、断定は避け、仮定としよう。
 何故、嫌がるかは後に回して、今は、その子、あるいはその親に対する弁明について述べたい。
 嫌なことでも進んでする、心の強い子になってもらいたい。
 もし、このような弁明をするなら、それは負の教育にあたる。
 本来、人間は他律的に強制されて、自律できるのだろうか?
 一時的に可能であっても、見かけだけではないだろうか?
 強制された自律は、自分より力の弱い人間に対して牙を剥いたり、たがが外れたときに暴走する。現代の子どもの犯罪やいじめなどの図式はこれに当たると考える。
 自律心を育てるのは教育の大きな使命のひとつである。しかし、これは他律的な力で育てられるものではなく、自らが育てなくてはならない。教育はその機会にすぎないのであり、それ以上の力を持ってはいけないのである。
 人は、[快]と[不快]によって行動の動機付けを行なう。快を求め、不快を避ける。不快を敢えて行なうことが自律につながるとの考えは古くから確かにあった。
 しかし、真宗ではどうなのか?
 と、問うだけで話を止める。宗教に関して、私は、単に生まれ育った家庭環境としての知識以上は持ち合わせていないからだ。
 ただ、真宗の場合、そうでないようにずっと思ってきた。そして、発達心理学の立場でも、不快の積み重ねが自律につながるとは説かない。
 不快を克服してこそ自律心が育つ、すなわち、登園を嫌がるのは、その子に自律心がないからで、叱りながらも無理にさせることで自律心が育つと考える根性論は、旧来の飴と鞭の教育論であって、子ども主体の教育論にはなはだしく反している(何故、子ども主体でなくてはならないかは後で述べる)。
 不快の経験の積み重ねで自律心が育つのではなく、逆に、快の経験の蓄積が自律心を育むのである。
 幼児期の発達速度は、我々大人が比較対照にならないほど速く、昨日できなかっても今日難なくこなしている光景も珍しくない。
 自分の力で何かをなしえたとき、子ども達は人生最大と言えるほとの充実感を感じている。
 この充実感の積み重ねこそが、自律心につながると私は考える。充実感の中身は人によって違うだろうが、生の喜びなくして、充実感はあり得ないはずなら、何故幼い子に苦行ともとれる活動をさせる必要がどこにあるのだろうか?私のおぼろげな親鸞像には、ないのだが。

2)子どもの役割分担に差があって良いのだろうかー意欲について
 具体的に言うと、能力のある子は、発表会では重要な役(例えば、台詞が長いとか)、楽器も目立つものを演奏したり、一部の子ども達だけがリレーやサッカーに出場すことである。
 逆に、発表会では、いつ、何をしたかも分からない役をし、楽器も簡単な打楽器類しか与えられなかったり、鍵盤ハーモニカなどは最初から音が出せないように工夫されたり、リレーもサッカーも応援するだけの子もいるのだ。
 能力のある子には、それなりの役を与えて、より能力を伸ばしてやるべきだ。能力のない子には、できるだけ負担の少ない役を割り当て、活動自体を十分に楽しめるようにするのが教育的配慮だ。
 人によれば、こう言うが、果たして真理だろうか。ここに一例をあげよう。
 以前、文字の全く読めない四歳児だけを対象に、文字が読めるようになるとっかかりを調べたことがある。
 そのとき、ある子が、「ぼく、字が書けるよ」と言って、全く意味のない線を描いた。一字も読めないのだから、書けるはずがない。でも、その子は書けると思っている。
 私にとって、保育を考える手だてのひとつになった。
 大人社会では、能力による差別は公然となされている。実社会は競争社会だ。それを否定した共産主義社会の崩壊は、能力による差別 のない社会が、人間の活力を損なうことも明白にした。
 しかし、競争社会の図式を、子どもの世界に導入するのが正しいとは、どうしても思えない。将来、競争社会が待ち受けているのだから、幼いときから慣らしておくべきだ、との考えで話を進めるのなら、多少飛躍しすぎると思いつつ、我々が死後の世界のみを考えて生きるに等しい愚かさに見える。
 王子様の役がしたい、大きなマリンバを叩きたいと思っている子に、最初から何の魅力のない役を与えて、「誰かがこの役をしないと劇にならないのよ」との詭弁で子どもに納得させるのが教育だろうか?また、その言葉に従う子ども達を、良い子としていいのだろうか?できなくても挑戦しようとする子は、結果 やはりできなかったとしても、自分の力の限界を知って自暴自棄にはならない。子どもなりの楽しみを発見しているはずだ。これが子ども特有の生命力の源である。
 能力差で保育者が役割配分をしては、意欲という、生きる力の源を最初から摘み取っている気がしてならない。

3)その期間中の自由時間に、
  子ども達だけで同じ活動をしないのは不自然であるー主体性について
 大人には私生活と社会生活の区別があるが、子どもにはない。一日の流れの中に明確な線引きがないのだから、もし、保育者と一緒に経験した活動が本当に楽しいのなら、子ども達は自分だけの時間、すなわち、幼稚園や保育園では自由遊びの時間に、また家庭では兄弟や家族、友達を交えて、必ず再現するはずである。
 ゴルフのスイングを勤務時間中にするのは不謹慎である。子ども達もアニメのヒーローごっこは園内でも行なうし、幼稚園ごっこを家庭でも行なう。勿論、不謹慎ではない。
 だから、ある行事に続く活動が、子ども達に心から受け入れられているのなら、その活動は子ども達の自由意思で再現されるはずである。そうでなかったら、子どもには好ましい活動だとは映っていないと判断できる。
 子どもの主体性を活かす保育が重要だとの議論に異論をはさむ人はいない。
 ただ、昨今その形態論の方が盛んなのは気になる。自由保育か設定保育かの議論である。
 私は、保育の形態を論じるより、子ども達が主体的に活動しているかどうかをまず検証し、論じるべきだと考える。
 設定保育を中心に進める保育者は、自由遊びで、どれだけ設定保育での経験が再現されているかを観察するのが大切であろう。

4)行事を終えたら、子ども達から
  「またしよう」との声が上がらないのは何故か
  ー行事に対する客観的な評価として
 これは、子ども側から見るとBと全く同じ内容である。また2)で述べた意欲とも係わりがある。にも関わらず、最後にこの項目をつけたのは、行事に対して、我々が重要視しなければならない評価基準だからである。
 通常、保育には導入とまとめが必要とされている。私はその両方を否定する少数派である。両者とも完全否定ではないのだか、ややもすると必須不可欠だとする傾向が強いので警鐘を鳴らしている。
 導入については後ほど述べるが、まとめの滑稽さについては、ここで触れる。
 活動が子ども達に受け入れられいるとは思えない公開保育の最後に、保育者が取ってつけたように、「面 白かったね。またしようね」と同意を強要してるのをしばしば見かける。保育者の言葉は、「あー、終わった。ほっとしたわ」としか聞こえないのである。
 こんな、まとめをしなくても、本当に面白かったら、3)でも述べたように、子ども達は自由遊びで再現するし、保育者に、再度しようと要求するはずである。保育者の自己満足を子どもに強要するようなまとめは、だから滑稽なのである。
 人間は不快を避け、快を求めると述べた。楽しい活動は、子ども達には当然快である。またやりたいとの声は、活動を充分に楽しんだ証なのだ。  
  総括的に言うなら、保育とは快の追求であり、そこから子ども達自身が、自律心、意欲、主体性を育てるのである。
 もし、「快」という文字が「快楽」に通じて違和感があるなら、幸福感ではどうだろうか?現況に幸福感を感じるなら、再びそれを求めようとするのは、ごく自然な心理であろう。

二、表現活動で育てたいこと
 行事のことのみ触れているようだが、先にも述べたように、園の行事には表現活動の成果 を保護者に見てもらうものが多いからであって、本来は行事から離れた普段の保育から、表現活動のあり方を問題にしなくてはならないのは当然である。
 何故、冒頭で述べたような表現活動が幼児教育の場に取り入れられているのだろうか?これらの活動は、日本に幼児教育が導入された頃から脈々と続いているもので、未だに幼稚園や保育園と言えば、お絵かき、お遊戯の類を教えてくれる所程度にしか考えない人もいる。
 そうではないんだと、英語やコンピュータなど諸々の新しい活動を導入している園も随分あるが、活動を変えるだけでは創生期の幼児教育より優位 に立っているとは言えない。子どもの真の姿を解明してきた発達心理学の進歩は、戦後著しいものがあるのに、目先だけの変化で時代の流れをつかもうとするのは、経営者的発想で、教育者のものではないと言えば非難を受けるだろうか?経営射的発想を否定するつもりはないが、教育的発想から離脱しては困る。
 それより、お絵かきであっても、お遊戯であっても、その内容の研鑽が必要であり、そのためには、指導者が、表現活動で子どもの内部に何を育てたいかとの理念を固持しなければならない。
 残念ながら、教育要領の「表現」でのねらいは、私への解答にはなっていない。

(1)自己の思いを表出する行為
 表現とは、そもそも、自分の思いや考えを表出する行為である。その手段を言葉に託すと文学になり、音なら音楽、色や形を駆使して美術という分野が出来上がる。身体を媒体とするのが舞踊である。
 だから、その行為の根底にあるものは、作者の意思である。その意思が崇高で、技巧にも優れている作品を私達は芸術と呼ぶ。たとえ技巧に優れていても、作者からのメッセージが乏しいものもあれば、技術的には未完成でも、鑑賞に堪えるものもある。
 幼児の作品や演奏を芸術と同列に並べるつもりはない。しかし、子ども達の思いや考えが表出しているものだけを、私は表現活動だと呼ぶ。
 すなわち、描画活動の前の長々しい導入によって、子どもが描きたいものとはかけ離れた作品、指導者の意図だけをくみ取ったような作品を「子どもの絵」とする立場にはいないのである。

(2)下請けとロボット
 ある園の制作活動を見たときである。
 クラス全体でひとつのテーマに取り組んでいる最中、保育者が子ども達に、「それが塗れたら、今度はこっちを塗ってね」と言っていた。
 これでは、子ども達は下請け職人である。
 また、保育者が指示するとおりに、子ども達が音楽に合わせて動いてるのを参観したときは、子ども達がロボットに思えた。
 造形では下請け、音楽や身体表現ではロボット。正しい姿だろうか?  
  反論は予測できるし、私も模倣を完全には否定しない。先に、子どもの思いや考えが表出したものだけを表現活動と認めると言ったが、ごく初期の段階では模倣も重要なケースがある。しかし、このような状態だけで園生活を送ってしまうのには同意できない。下請け的な作業や、保育者の模倣は、あくまでもとっかかりにすぎず、必ずや子ども自身の思いや考えが表出できる機会は、たとえ下請け作業中であっても、ロボットであっても、保証すべきであるし、願わくば、表現活動の分野で相当異なるものの、できるだけ早い時期から完全な保証をしてやりたい。
 日本では、伝統的に芸術活動は門弟制度で伝授され、「習うより慣れろ」式の考え方が根強く、学校教育での表現活動も同一視される傾向にあると言わざる得ない。
 また、表現手段を技術的なものとして捉え、技術習得のために、繰り返しの練習が必要だとする考えも根強くある。しかし、子ども達が表現する楽しさを味わえば、繰り返しは自然に子ども達から生まれて来る。逆に楽しさがないなら、子ども達にとって不快以外の何物でもない。この点が現場での一番大きな過ちだと私は見ている。

(3)人格形成に欠かせない表現活動
 では、何故、子ども達の思いや考えを表出できる活動が重要なのかについて述べなくてはならない。
 本来、学校教育での表現活動は、人格形成という教育の本質に関わっている。(余談だが、「道」という言葉に、日本人は精神性を追求したが、これは成人の精神鍛錬を意味するのであって、幼児教育に当てはめるのは暴挙である)
 幼い子ども達は、まだまだ未完成な人格である。自己の意思を表出する行為を繰り返すことで自己を実現していくと考える。もちろん幼児時期に自己実現が完成するものではない。むしろ、児童期、思春期へとつながる基盤作りにすぎない。
 人格は大きく、知性と性格に分けられる。知性は思考能力で、性格は感情面と精神面 に分けられる。すなわち、人格形成を目標とする教育は、この両面を考慮すべきで、片方だけでは歪な発達になる。

1)知性面での重要性
 幼児の思考は具体的操作と呼ばれる段階で、抽象的な概念の理解はできない。
 また、表現行為のメカニズムは、年齢に関係なく、心像(イメージ)の具体化である。心像はそもそも曖昧な場合が多い。実際に手にすることができないのだから抽象的である。
 ここに、幼児教育が表現活動を重要とする第一の理由がある。すなわち、具体的操作の段階に移行する子ども達が、心像の具体化という、幼児には身近な課題が適しているばかりか、学童期後半の抽象的操作に続くシェマの獲得になる。とりわけ、造形や身体表現は、表現手段そのものが、言葉や音楽に比べ、より具体的で感覚的であるために、曖昧な心像を具体化しやすく、幼児期の活動には相応しい。
 滝沢武久は、イメージと遊びの関連の説明で、次のように説明している。  子どもが現実とは異なる場面 を作って遊ぶ経験は、やがて実際の事実とは逆の仮定的な状況を想定して、そういう前提のもとに思考を進める能力を発展させることになり、この思考が、子どもが将来直面 せざるえない学校での学習場面で、しばしば要求されるのは言うまでもない。
 子どもの遊びすべてが表現活動ではない。しかし、子どもの遊びの多くは過去の経験の再現であり、この点からも、表現のメカニズムとよく似ており、思考の働きには大差がないと考える。違うのはその手段だけである。  
  学習場面で言うならば、課題の理解力だけではなく、理解した内容をまとめる能力は表現力に通 じる。外国では学級内で、小さな研究発表をよくすると聞く。単に知識の習得だけではなく、調査方法や調査結果 などをまとめる行為は、一種の表現活動と言っても差し支えない。

2)感情面での重要性
 性格は持って生まれた資質としての要素は強いが、教育の果たす役目も大きい。
 表現活動と言われている分野が、療法として近年障害者教育のみならず、成人の精神治療の一環として取り入れられているのは興味深い。
 何かを作ることで集中力が増したり、何かの役を演じることで抑圧された精神が解放されたり、その効果 は医学的な治療より高いケースも多く報告されている。
 表現活動を通して、人は何故感情的に安定するのだろうか?私はそれを動物的本能だと解釈する。
 人間は本来集団で生活する動物である。他者とコミュニケーションを持って生活してきた。いくら現代社会で社会的接点を厄介がる人間が多くなったとしても、接点は皆無にはならず、携帯電話や付けっぱなしのテレビなど、コミュニケーションなしでは生活できない 。
 表現活動は自分の思いや考えを表出する行為だと述べた。換言すれば、表現活動はコミュニケーションに他ならない。自分が表出したものを受け止めてくれる人がいるから、あるいはその場にいなくても、いると仮定できるから表出し、精神の均衡をはかっている。表現欲という言葉はないが、表現する機会を一切奪われたら、人は正常な精神状態では生活できない。
 大人でもそうなのだから、幼児の場合は尚更だと言える。だから表現活動は、人格形成途上の子ども達には、感情面 での安定という理由からも重要なのである。
 ロックミュージックに熱中している中学生に、何故文部省はシューベルトを歌わせようとするのか、私には分からない。と、同様に、幼稚園児や保育園児から、いきいきとした表情が失せ、緊張で蒼白になるような楽器演奏を何故させるのかも分からない。
 感情の安定と言えば、消極的な理由のように思われるが、大抵の幼稚園や保育園で掲げている、いきいき保育の根底には、この感情の安定が不可欠である。また昨今、すぐに切れる人間が多いのは、幼児期の情緒不安定が何らかの影響を与えるているように思えてならないのである。 B精神面での重要性  幼児教育でよく耳にする主体性は、精神面で重要な要素である。しかし、まだまだ人間形成途上の幼児には確固たる一個の人間としての人格はなく、よって完全な主体性は備わっていない。
 しかし、幼児も、特定の場面では充分主体的に行動できる。すべての生活場面で主体性を発揮できないからこそ、保育の場でそれを準備するのが我々の使命だと考える。
 同時に、主体的な行動でこそ、人はいろいろな能力を自分のものにするのであって、冒頭でも述べた、自律心や意欲などの精神面 だけではなく、思考面での発達にも欠かせないことは発達心理学でも証明されている。
 表現活動は、この点でも幼児期には適応している。何故なら、先に例として取り上げた、文字の書けない子の無意味な曲線は、文字としては正しくなくても、造形としてなら受け止められるからである。すなわち、表現活動では、保育者の模倣に終始しない限り(この状態では私は表現活動と認めないことは既に述べた)、正解、不正解はないのである。よって、子ども達ひとりひとりの行動を充分に認められるのである。認められた子どもは自分の能力に充実感を感じ、より意欲的になり、より快を求めようとする。この連続で子ども達は育つのである。
 今回、私が実践している表現活動の具体例は一切触れずに、日頃思っている表現活動のあり方、幼児教育での表現活動の重要性についてのみ述べた。
 表現活動と言っても、その分野によって実践方法は大きく異なる。同じ造形活動でも、描画指導と製作指導では、その手法は異なる。ましてや、身体表現に同じ手法は用いられないし、身体の動きを手段としても、体育的な活動と身体表現は全く異質なものである。
 ところが、これまで述べたように、表現活動全般には共通した概念とねらいがある。この点を指導者がしっかりと持たなくてはならない。主体性という点からだけ見ても、音楽の中でも、とりわけ楽器演奏では子ども達が主体的に活動する場を作るのは難しいと思われがちで、「楽器演奏は仕方ないんだ」としてしまうのをよく見かける。これでは指導を受ける子ども達は右往左往してしまい、ちぐはぐな人格形成を誘導してしまうことにならないでもない。

 幼稚園に副園長として入って、今年で二十年になる。その間、書物から知ったことと、現場の保育とのギャップに驚き、自分なりに解決方法を模索してきた。自分の中で保育理論の体系化を試みようとしてきたのではなく、実際の活動のひとつひとつを心理学に照らし合わせながら、子ども達にとって理想の保育とは何かを追求してきたつもりである。
 そして今、活動のいくつかは、他園の先生方にもご指導するまでになったが、私が実践している表現活動が唯一無二だとは思っていない。それぞれに研鑽され、素晴らしい表現活動をされている園も多くあるだろう。今更一園長の表現論に何の示唆も得られないとしても、私の責任の方が遙かに大きいと思う。
 けれども、最初に提示した行事での子ども達の様子の四項目のどれかが、園の実体に当てはまるのなら、表現活動全般 の見直しを是非実施してもらいたのである。
 子どもは不満を言わない。だからこそ、我々が子ども達の瞳の輝きから、快を見出していかなければばらないのである。
 私は学者ではないので、新しい知識の発表としてこの文章を書いたのではなく、現代の教育の問題点を他人事として受け止めるのではなく、一人一人の園長なり、設置者が子どもの姿から謙虚に学び取ってもらいたいと願ってのことだ。
 子どもを粘土細工のように扱うのは簡単である。しかし、その魂に輝きを持たせるのは容易ではない。しかも、保育者が勝手に成形して良いものでもない。私学の独自性が、設置者のエゴになっていないだろうか?このような憂いを払拭できずにいるのは、私一人なのだろうか?

 先の四項は、この二十年間に、自園の保育や行事を評価し、変革する際に用いた基準である。幼稚園や保育園は一年周期なため、ほんの僅かな改革にも数年を要する。現に、今自園で取り組んでいる描画指導も、新しい方向に転換して八年目にして、ようやく保育者にも行き渡ってきた。その間の子ども達には充分な指導ができなかったことに対し、園長として責任を感じるが、従来の間違った指導法で指導を受けて卒園していくよりは、子ども達にとって幸いしていると考えている。  現状を否定して、再出発するのに臆するだけで、現状に止まっていたのでは、園の活性化にもつながらないし、それ以上に子ども達に申し訳ない。私の二十年はその連続だったような気がする。
 子ども達の今日の幸せと、将来の健全な成長を願いながら書かせていただいた。
          千里敬愛幼稚園 園長 小谷 隆真